一般社団法人沖縄県軍用地等地主会連合会(土地連)

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土地連の歩み-通史編

第五節 日米安保条約と沖縄の米軍基地

一 はじめに

沖縄県における米軍基地は、終戦直前の一九四五年(昭二〇)四月に米軍が上陸した後、占領当初においては日本本土を攻略するための前進基地として、また、終戦後は、日本の軍国主義復活に対する監視基地としての役割を担わされ、一九五二年(昭二七)の対日講和条約発効まで、米国の占領地域として無償の強制使用が続けられた。

戦後、世界は程なく、米国を中心とする西側陣営と、ソ連を中心とする東側陣営が対峙する冷戦時代に突入し、一九四九年(昭二四)の中華人民共和国の成立、続く一九五〇年(昭二五)の朝鮮戦争の勃発等により、米国の極東政策は大きく転換を余儀なくされた。

これにより、沖縄は東アジア地域における戦略上の要衝として存在することとなり、沖縄所在の米軍基地は、極東ソ連軍や朝鮮半島及び台湾海峡、さらにはインドシナ半島の動向を睨んだ米軍の戦略拠点として、また、アジア地域で発生した戦争に、米国が直接関与するための重要な基地として存在することとなった。

こうした国際情勢を背景に、米国は沖縄の長期保有と在沖米軍基地の機能強化を図る方針を打ち出し、沖縄を米国の施政権下に置き続けるとともに、一九五〇年代をピークに、沖縄本島中部地域を中心とした土地の強制接収を行い、広大かつ過密な米軍基地を構築していった。

沖縄の米軍基地の戦略的重要性については、一九七二年(昭四七)五月の沖縄の日本復帰の時点においても、ベトナム戦などの局地的戦争を含め、世界が東西冷戦の激動期にあったため、米国の世界戦略の中での位置づけに変化が見られず、沖縄復帰に先立つ佐藤・ニクソン会談後の共同発表で、在沖米軍施設・区域の整理縮小の必要性について言及されるも、その大部分が、日米安全保障条約に基づく提供施設として、引き続き米軍に使用されることとなった。

沖縄県における米軍基地については、日本復帰に際し、すみやかな整理縮小の措置をとるべきとする「国会決議」がなされたにもかかわらず、基地の整理縮小は遅々とて進まず、復帰後、米軍基地の返還が本土では六〇パーセント進んだのに対し、沖縄県では一六パーセントにとどまり、戦後六〇年余を経た今日においても、今なお、国土面積の約〇・六パーセントに過ぎない狭隘な沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約七五パーセントが集計し、県土面積の約一〇・四パーセント、沖縄本島においては一八・八パーセントを占めるという極めて異状な状況となっている。

このように広大かつ、過密に存在する米軍基地は、沖縄県の振興開発を進める上で大きな制約となっているばかりでなく、航空機騒音の住民生活への悪影響や演習に伴う事故の発生、後を絶たない米軍人・軍属による刑事事件の発生、さらには汚染物質の流出等による自然環境破壊の問題等、県民にとって過重な負担となってきた。

日米両政府においては、一九九五年(平七)十一月、沖縄県民の過重な基地負担を軽減し、米軍基地問題等の解決を図る目的で「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」を設置したが、未だに、具体的な進展を見ていない状況にある。

沖縄の米軍基地問題に対する国内外の関心の高まる中、一日も早い、県民の目に見える形の成果が期待されるところである。
このたび、土地連が創立五十周年記念誌を発行するに当り、前述した米軍基地問題の背景を踏まえ、本節の「日米安保条約と沖縄の米軍基地」について述べることにする。

なお、記述にあたっては、日弁連において詳細にとりまとめた「日本の安全保障と基地問題(報告書)」の資料の一部を参考にすることとした。

二 駐留軍用地特措法の改正

一九九七年(平九)四月十七日、在日米軍基地用地の使用権限を強制収用するための法律である「駐留軍用地特別措置法」(特措法)の改正が、国会において成立した。それが公布された同年四月二十三日、即日施行され、効力を発することとなった。

この改正は、既に同年三月三十一日をもって使用期限切れとなっていた楚辺通信施設(象のオリ)の一部の土地と、同年五月十四日に使用期限切れとなる強制使用土地、あるいは契約土地でその後は継続契約を承諾しない土地を、引き続いて強制使用するための措置であった。

この改正の骨子は、米軍が使用中の駐留軍用地を防衛施設局長がその継続使用のために収用委員会に使用裁決申請をしていれば、使用の裁決が出ないうちにでも継続使用ができる、というものである。さらにその後、申請却下の裁決があっても不服申立をしておけば、継続使用ができるようになっている。

収用委員会による審理手続の後、使用裁決があってはじめて起業者(この場合は政府)が、米軍に提供する土地の使用権原を取得することができるというのが収用法のリズムである。憲法二十九条が保障する、国民の財産権の尊重と適正手続を含む正当な補償は、この過程を経ることによって、はじめて実現されるのである。

今回の特措法の改正は、収用委員会による審理手続を経ることなしに、政府に土地使用権原を得させるという点において、土地の強制使用について権利者の適正手続の憲法的保障を奪うことになる。

さらに、却下に対する不服申立中も土地使用の継続を認めることは、その審査請求に対する裁決は建設大臣がおこなうことになっているので、駐留軍用地については、収用委員会の個人財産権保護の保障機能は働かない結果となる。

このことは、政府等が国民の土地を強制収用する場合は収用委員会の手続によっておこなうという、収用についての基本的な考え方を覆すことになる。

米軍基地についての特別法であるこの特措法の一般法にあたる「土地収用法」は、戦後の改正において収用をおこなうことのできる事業項目のなかから、軍事施設を削除した。自衛隊施設については土地収用法が適用されないのに、外国軍隊である駐留軍用地のため収用がなぜ許されるのか。土地権利者は、駐留軍用地についてはどのような理由でその財産権の制限を受忍しなければならないのか、国民の誰もが考えつく疑問点である。

このような法的問題を別にしても、在沖米軍基地は、日米安保条約第六条にいう日本の安全と極東の平和と安全、具体的にはソ連を主要な対象とする冷戦対策として、その必要性が理由づけられてきた。

ソ連の崩壊後、軍事対立が解消されてきた現在においても、なお必要があるのか、その必要性は認められるとしても基地の現状は過大ではないのか、それが沖縄に偏在し、沖縄県民は何時までも基地被害を受忍しなければならないのか等、多くの疑問点がわき上がってきた。

一九九五年(平七)九月におきた少女暴行事件は、沖縄県民の中にあったこれらの疑問と憤りを一気に噴出せしめて、在沖米軍基地の縮小整理、さらには撤去の要求を大県民運動に転化させる契機となった。

このような動きの中で、特措法の改正がなされたのである。基地の固定化、永続化につらなるこの改正について、大田沖縄県知事をはじめ県民の大多数は反対であった。

政府も、このような反対があることは十分承知していたが、日米安全保障条約は国の安全保障のために重要であり、この条約上の義務の履行として米軍に基地使用を継続させることは国益であるから、そのための措置として特措法の改正は必要であるとして、これを断行した。

政府のいう、国益と土地所有者の権利、県民の要求との対立矛盾は、ここにあらわとなった。また、この特措法は日本全土に施行される法律のかたちをとっているが、現実の適用は沖縄地域に限られており、今回、同年五月十四日の沖縄の軍用地使用期限切れを前にしての対策であったことは明白であった。

国会の代表民主制による多数決原則と直接民主主義原理に基づく地域住民の意思による自己決定との対立関係も、ここに露呈することとなった。

ここで提起された問題について、日本国民がどのように考えてその合意を形成し、どの方向で解決をはかっていくかに、日本の民主主義と国民主権及び人権保障の将来がかかっているといっても過言ではないであろう。

このような施政権者と住民の権利との間の矛盾対立は、今回の特措法改正問題に限られるものではなく、沖縄の軍用地問題の歴史はそれに貫かれている。

それはまた、権力による、住民の参政権をはじめとする自己決定権の侵害とそれに対する抵抗の歴史でもあった。今度の特措法の改定は、この人権侵害と自己決定権の剥奪状態を固定化するものであった。

国民が政府の措置の当否を検討し、沖縄の軍用地問題の解決の方向を見出していくためには、軍用地の歴史とその転換点における法的問題を把握しておく必要がある。

三 米軍による土地接収

一九四五年(昭二〇)四月一日、沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍は、そこに展開していた日本軍との戦闘に勝って、日本軍陣地のあった中飛行場(のちの嘉手納基地)、北飛行場(のちの読谷補助飛行場)などを占領した。

それらを拠点として戦闘を継続して日本軍を本島南端に追い詰め、同年六月二十三日、日本軍の組織的交戦態勢が崩壊した。七月二日に米軍は、作戦終了宣言を発して、沖縄地域は米軍の全面的な占領下におかれた。

米軍が戦闘行為によって日本軍を制圧し、日本軍陣地等を占領し、それを戦闘継続の拠点として利用することは、ハーグ陸戦条約附属規則によって認められている。

戦闘終了後もゲリラ活動対策など治安維持の必要からする占領権力の行使も国際法上、承認される。

同年八月十五日、日本国政府がポツダム宣言を受諾し、九月二日、日本軍司令官による降伏文書の調印があって、連合国軍と日本軍との交戦はすべて停止されて休戦状態となり、日本全土は連合国軍の占領下におかれた。

この占領は、一般的国際法としてのハーグ陸戦規則の条項と休戦合意として降伏文書に従うことになる。連合国軍の日本占領が通常の休戦中の占領に比して特異な点は、占領がポツダム宣言の制約の下におかれていることである。

同宣言の目的である日本の軍国主義の解体と民主化の達成は、占領軍である連合国軍に、通常の休戦期間の占領軍よりもこの目的実現に必要な範囲において広汎な権限を与える反面において、この目的と相反する措置をとることを違法ならしめることで、その権力は減縮されることにもなる。

米国は、戦闘によって占領した沖縄地域に軍政府を設置して、これを日本の他地域と分離して特別の占領行政をおこなった。沖縄は日本の本土の一部であるから、米国を含む連合国と日本との法的関係においては、沖縄は他の占領地域と異なるところはない。

米軍が沖縄で別個の占領政策をおこなったことは、米軍の、あるいは連合国軍の便宜のための措置に過ぎない。沖縄に対する占領行政もポツダム宣言の目的を達するための保障占領であって、この制約を超えるような措置が許されるものではなかった。

沖縄戦で日本軍の後退によって戦線の後方に取り残された住民は、米軍によって収容所に入れられた。米軍は沖縄戦終結後もこのような隔離収容を続け、同年十月末にいたってようやく収容所からの解放をはじめた。それも住民は直ちに、自分の家に帰れたのではなく、所々を転々と移動させられた。

この間に米軍は、基地用地として広大な土地を囲い込み、その面積は一九四五年(昭二〇)段階で一八二平方キロに及んだといわれる。住民が、ようやく生まれ育った土地に帰りついてみると、わが家は跡形もなくなっており、耕作地は基地の金網の中であったという人も少なくない。

ハーグ陸戦規則は占領軍に、その四十六条で私権の尊重を規定し、ことに私有財産は没収することを得ず、としている。

土地の利用についても、国有地について公益権の法則によって管理すべきといい、公共用建設物でも、宗教慈善教育等に用いられているものは、私有財産と同様に取り扱うべきことを命じている(五十六条)。

この規則によれば、米軍が沖縄でおこなったような住民の所有地の大量の囲い込みは許されるものではない。それは多くの住民の生業であった農業の経営を不可能にし、生活の本拠を破壊するものであった。

一般的にいっても休戦中の占領軍の権限は、戦闘中のそれよりも縮小させられる。戦闘継続のための私権制限という必要性より、休戦中の治安維持のための必要性は減少されるからである。さらに、ポツダム宣言の実施という保障占領の目的のために、米軍にそれほど広大な土地を必要とするという理由はあったはずはなかったのである。

一九四九年(昭二四)に中国革命が進行し、その年十月に中華人民共和国が成立した。翌五〇年(昭二五)六月には朝鮮戦争が勃発した。米国はこのような事態に面して、沖縄の基地を冷戦対策の基地として拡大強化する方針をとった。

このため五一年(昭二六)には一二四平方キロに減った基地の拡張を図り、五三年(昭二八)の基地面積は一七一平方キロになった。

日本軍国主義の復活を監視する必要という点からすれば、米国が基地を沖縄におくこと自体は、基地の質、量の問題はさておいて、一応理由づけることができる。

しかし、ソ連、中国等に対する冷戦のために沖縄の基地を維持し、さらに拡大することは、ハーグ陸戦規則からして許されるものではなく、またポツダム宣言の趣旨に反することは明らかである。

四 平和条約と沖縄の施政権分離

一九五一年(昭二六)九月八日、日本との平和条約は締結され、翌五二年(昭二七)四月二十八日に発効した。これによって日本に対する連合国軍の占領は終了し、日本は独立を回復した。この条約にはソ連、中国等は参加しなかったので、連合国側との全面講和とはならず、この状態を指して単独講和と呼ばれた。

この条約三条によって、沖縄は日本の他地域から分離され米国の施政権の下におかれた。この措置は、沖縄を米国を唯一の施政権者とする国連の信託統治地域とする提案がなされ、それが可決されるまでの間のものとされた。日本政府は米国からのこのような提案がなされればそれに同意することを約束していた。

信託統治制度は、その地域の住民の政治的、社会的、経済的発展をうながし、自立させることを本来の目的とする制度である。沖縄は日本本土を形成するその一部であって、この前提条件に合致しないことは明白である。

したがって、沖縄を信託統治制度の下におくことを前提として、米国が施政権を握ることは国連憲章違反である。

また、講和がなされ、連合国軍による日本占領体制がとかれるということは、ポツダム宣言によれば、日本の民主化が達成された時である。

その時は、ポツダム宣言の履行保障のための軍隊は撤退しなければならない。沖縄地域だけが、民主化が不十分であるとして、米軍が居残る理由はないのである。講和による沖縄の分離と米軍基地の存続は、ポツダム宣言に反するものであった。

このような講和を前にして、一九五一年(昭二六)四月、沖縄住民は日本復帰期成会を結成し、わずか三か月の間に、全有権者の七二・一パーセントにあたる一九万九,〇〇〇の即時復帰の署名がなされた。沖縄の分離は、国連憲章一条二項の人民の自決原則にも違反するものであった。

日本に対する講和条約は、日米安保条約とセットになっていた。安保条約によって米軍は、日本に基地をそのまま維持することができた。沖縄地域にいたっては、全面的な施政権を獲得して、いわば軍事的植民地として利用することになった。

この事実からすれば、米国の対日講和は、ポツダム宣言の履行完了ではなくて、日本においてある基地とその運用をポツダム宣言の法的拘束から離脱せしめるための冷戦対策措置であったと評価できる。

米国のこのような政策に対して、日本政府は、ポツダム宣言に依拠して、全面講和と連合国全占領軍の撤退を要求し、沖縄の分離を阻止しうる法的根拠を有していた。

しかし、日本政府は、米国の冷戦体制に組み込まれ、朝鮮戦争景気で急速な復興の道を歩んでいた経済情勢を背景にして、米国の政策に追随し、ポツダム宣言の履行を求めなかった。

サンフランシスコ講和会議に臨んだ吉田茂首相は、そこでこのような講和を「欣然受諾する」という演説をおこなった。日本政府の措置が主権の一部放棄であったという批判は免れがたい。

この講和は、沖縄が分離され、そこで占領状態が継続したという意味では、全体講和ではなく、部分講和であった。沖縄住民の日本復帰の要求は、占領状態からの一刻も早い解放をのぞんだ日本政府によって切り捨てられたのである。

国民の側でも、このような講和に対して、単独講和反対、全面講和実現の旗をかかげたが、沖縄の分離、部分講和反対の声は小さかった。沖縄県民がこの状態を目にして日本国民から見捨てられたと考えても当然であろう。

これまで沖縄の米軍は、占領軍の権限行使ということで住民の土地を接収し、基地としての使用を継続してきた。講和後も米軍の基地はそのまま継続維持された。しかし、米国は占領軍として土地を使用する法的権限を名目的にも喪失することになった。

そこで新たな土地使用の法的根拠を創出する必要に迫られた。米国の軍政機関である琉球列島米国民政府は、一九五二年(昭和二七)十一月一日、布令第九一号「契約権」を発した。これによって、土地賃貸借契約の締結を地主にせまったが、これに応じた地主は全体の二パーセント弱にとどまった。この間、米軍は基地を使用し続けていたので、その使用は不法占拠となり、それが長期間継続したことになる。

布令九一号による土地使用権限の取得に失敗した米軍は、一九五三年(昭二八)布令一二六号「軍用地域内における不動産の使用に対する補償」を公布した。これによれば、米国は既設軍用地について、一九五〇年(昭二五)七月一日から「黙契」による借地権を取得したのだ、というのである。

収用など一切の手続きをせず、米軍の一方的発令によって、地権者の権利を奪うということは、近代法上許されるはずのないものであり、暴挙というべきである。

一方、新規買収については、同年四月三日、布令一〇九号「米合衆国土地収用令」が発せられ、それは告知だけで米軍に土地使用権限を取得させるというものであった。このような布令は、到底住民を納得せしめるものではなかった。住民の反対を無視し、この布令による接収が強行された。土地を取り上げられないよう懇願する住民を銃剣をつきつけた米兵が取り囲み、住家をブルドーザーで破壊して、土地を収用していった。

このような状態が、伊江村真謝、宜野野村伊佐、小禄村具志など各所でおこった。土地を奪われた真謝の人びとは、「乞食行進」をして全島の住民に米軍の不当性をうったえて回った。

米軍の強制によって、那覇市北部の銘苅、安謝、読谷村渡具知の住民は居住地から退去させられた。本島北部の広大な山林が、海兵隊演習地として接収されていった。

米軍のこのような土地収用の強行に対して、沖縄住民は、土地取り上げ反対、正当な補償要求をかかげた島ぐるみ反対闘争をおこなった。一九五六年(昭三一)七月二十八日那覇市でおこなわれた県民総決起大会には一〇万人が参加した。

平和条約三条による沖縄に対する施政権は、前記のとおりそれ自体違法なものである。その問題は別にして、土地占有の権限の法的性格もまたあいまいである。しかし、米国が信託統治地域にすることを名目にして占拠している限り、国連憲章の信託統治設定の法意からみても、その目的に反する強制使用はできないはずである。

信託統治制度の本旨からして、住民生活の破壊、財産権の侵害そのものであるこのような土地政策が憲法上許されるはずがないからである。

この施政権を法的には占領の継続であるとすれば、占領に関する国際法に違反しているといわなければならない。一九四九年(昭二四)八月十二日、「戦時における文民の保護に関するジュネーヴ条約」が締結され、一九五〇年(昭二五)十月二十一日発効している。

日本も一九五三年(昭二八)十月二十一日に加入している。この時期における新規の土地接収はもちろん、占領の開始以来の住民の居住地域からの立退きの強制は、この条約の四十九条に違反しており、国際人道法の観点からして許容されうるものではない。

五 沖縄返還協定と原状回復原則

一九七一年(昭四六)六月十七日、日米両政府の間に沖縄返還協定が締結された。これは一九七二年(昭四七)五月十五日に発効して、沖縄の日本復帰が実現した。このことによって、米国の沖縄住民の土地を占有使用する権限は、占領状態の終了にともない、そのすべてが喪失されることになった。

平和条約三条の施政権に基づく米国政府の土地使用権限は、それが「契約」に基づくとされていても、施政権消滅により、復帰後において米国と地権者の間に私法的な使用関係が残されるものではない。

したがって、米国政府は、復帰後の土地使用について、直接的にか、あるいは施政権を復活させた日本政府を通して、地権者と合意することが必要であった。予め合意に達しなかった地権者に対しては、その土地を接収開始の原状に復して返還することが必要であった。

またこの間、土地使用に関して地権者に生じていた損害の未補償分については、速やかに補償をすべきであった。ハーグ陸戦規則五十二条、あるいは同条約三条は、これらの措置を占領軍に命じている。

国民から国政を信託されている日本政府は、米国政府に対して国際法上の権利を行使して、その内容を実現すべき責任を国民に対して負っていた。このことは、日本国憲法が規定する政府と国民との間の法的基本関係に基づくものである。

ところが、日本政府は、返還協定四条において、米国に対して原状回復及び補償に関する請求権を放棄し、米国がそれまでにおこなってきた施策について事後の法的効力を承認した。

さらに同三条により、米軍基地の継続使用を安保条約及び米軍地位協定にしたがって認めるとした。このことは、日本政府が、それまでの米軍の土地接収及びその占有使用の違法性に対する責任追及をしないことを米国に表明したことになる。

このことは、政府が国制上国民に負っている国政の受託者としての責務に背反したことを意味する。

政府間の合意である沖縄返還協定の内容は、地権者である国民を直ちに拘束するものでないことはいうまでもない。日本政府は、米国に対する条約上の義務を履行するためには、憲法にしたがった国内法上の措置をとって、地権者から土地使用の権限を取得した上で、それを米国に提供することが必要となる。

復帰当時この契約に応じなかった地主は約三、〇〇〇名であった。駐留軍用地の取得が土地収用法の外におかれていることは前記のとおりである。駐留軍用地の取得については、既に駐留軍用地特別措置法が制定されていたが、前記の理由で、その合憲性については疑いがさしはさまれていた。

日本政府は、この特措法による収用手続さえも踏むことなく「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」を制定して、復帰と同時にこれを施行した。この法律によって、米軍は五年間継続使用することができるものとしたのである。この特別法が適正手続を欠き、私権を著しく制限することはいうまでもない。

また、沖縄地域に限られる法制定であるのに憲法九十五条の住民投票はおこなわれなかった。この問題は沖縄県民の自己決定の外におかれたのである。

公用地暫定使用法は五年間の時限立法であったので、それによる使用権限は、一九七七年(昭五二)五月十四日で失われた。この間その数は減ったけれども、契約を拒否する地主はその立場を堅持しつづけた。

これに対して政府は、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化に関する特別措置法」を立案し、その附則六項として公用地暫定使用法の五年延長規定を挿入した。これによって、未契約地主は、さらに五年間、何ららの手続を経ることなく、その権利を奪われることとなった。

沖縄の土地は、戦火により、またその後の米軍の基地建設により、地形が一変し、境界が失われ、地籍不明地が多数生じたことは事実である。そのことが沖縄の復興の妨げになっていたことも現実である。

戦争の惨禍をひきおこした政府に、その責任を感じて一日も早い復興に努力する気持ちがあったとしたら、地籍の明確化も復帰後、直ちにその実行に着手されたであろう。

一九七七年(昭五二)になって着手した政府の意図は、沖縄県民の生活擁護ではなくて、附則六項による駐留軍用地の継続使用にあったと言われても、弁解の余地はあるまい。

このような意図は国民に見透かされるところとなり、この法案に対する反対運動がおこった。そのためにこの法案は同年五月十四日の使用期限切れまでに成立せず、五月十八日になってようやく成立し、この四日間の不法占有状態が現出した。

この公用地暫定使用法による使用期限は、一九八二年(昭五七)五月に切れ、その間に駐留軍用地特別措置法による収用手続で五年間の使用が決定された。

その後一九八七年(昭六二)二月、収用委員会は同年五月十五日から一〇年間の使用裁決をおこなった。それが今回、一九九七年(平九)の五月の期限切れとなったのである。これに対して、日本政府は、この特措法の改正により、公用地暫定使用法以来再び収用手続をも省略する強制使用の挙に出てきたのである。

今回改正された特措法が適用される地主の数は、いわゆる一坪反戦地主を別にして、約一〇〇名である。沖縄の軍用地主の数は、約三万二,〇〇〇名であるから(土地連の調査によれば、約二万八,〇〇〇であるから、その占める割合は小さいといえよう。

しかし、防衛施設庁からの執拗な勧誘といによる圧迫があり、さらに部落、あるいは周囲の地主からの契約応諾の要請の中で、復帰後二〇年余の現在、これだけの地主が残っていることが注目に値する事実である。県民の中の戦争と基地に反対する思いの根深さを示すものといえよう。

軍用地主の多くが土地返還要求をためらう理由は、これまでの返還が、地主側の事情をかえりみない米軍側の恣意的返還であったことにある。こま切れにされた土地を返されても、跡地利用の目処がたたないのである。

土地連の調査によれば、これまで返還された土地が利用できるようになるまでに平均一四箇年かかっている。

返還地について、米軍も日本政府も原状回復措置をとらないのであるから、たとえ、厚いコンクリートでおおわれた土地を返されても、個々の地主としてはどうにもならないのである。この利用できない期間は、地代支払いもそれにかわる補償もなされないばかりか、地主は固定資産税の支払等の負担を負わなければならなかった。

最近、軍用地転用補償法(軍転特措法)が制定されて、返還後三午間の補償がなされるようになったが、前記のとおり跡地利用に一四午年かかる現状からすれば、到底補償の名に値しない、といえよう。

駐留軍用地に限り、原状回復義務が否定される理由はないはずである。米軍と日本政府は、この義務を否認することによって、個々の地主を窮地に追い込み、駐留軍用地の継続使用を強要している状態を現出しているのである。

今回の特措法の改正は、日本政府の立場の強化を意味するものではないであろう。沖縄県民の軍事基地反対、その縮小整理さらには撤去の要求の高まりが、政府の収用手続への着手を逡巡せしめることになり、さらに、収用委員会にその手続を慎重ならしめることになったのである。

県民の声に追いつめられた政府が、このような無理を重ねる強行措置をとり、この改正により安保条約履行遅滞による対米国責任の窮地からの脱出をはかろうとしたのが、その真相であろう。このことにより、未契約地主に対する土地使用の強制は、政府の立場を道徳的意味においても、ますます薄弱ならしめたのである。

米占領下におかれていた沖縄県民は、講和決定において意思表明の機会を奪われ、安保条約の締結には責任を負うべき立場になかった。また、米国の国際法違反の土地接収についても、日本政府からその外交保護権行使の外におかれてきた。

さらに、沖縄返還協定の締結にあたっても、日本政府によって主権者の一員としての権利を無視され、国益の名の下に、権利侵害の受忍を強要されてきた。そのように疎外され苦境におかれた中にあっても、沖縄県民が自らの生活と権利のためにこれまで闘い続け、幾分でもその権利を実現してこられたのは、その団結の力によるものであった。

米軍政の補助機関として設立された琉球政府を住民の自治政府に転化させ、米軍の任命にかかる政府主席を県民の公選主席に変えた。また日本に施政権を返還させたのも、県民の復帰運動の盛り上がりであった。この力は、まさに憲法の主権者としての権限の行使であり、また国連憲章一条の人民自決の原則の発揚であった。

安保条約と米軍地位協定による基地の重圧をはねかえす力について、この原則のもつ力が再び盛り上がりつつあることを、最近の県民運動の様相の中に見てとれるのである。これまで、沖縄県民のおかれた不当な地位からの脱却、権利の回復の要求運動に対して、他地域の住民が国民として、また主権者の一人として、その責務を果たしてきたとは、いいがたいものがあることは、これまでみてきたとおりである。

沖縄の軍用地問題の歴史は、このことを、国民のすべてが否認することのできない具体的な事実として物語っているのである。

日本が民主主義国家であるか、人権の擁護という憲法上の原則を現実のものとしているか否かについて、国民が今後、沖縄の軍用地問題に取り組むかが、その試金石の役割を果たすことになるであろう。

なお、前述した駐留軍用地特措法の再改定案が、一九九九年(平一一)七月八日、参院本会議で可決、成立した。同特措法は、一九九七年(平九)四月に改定されたが、今回はそれ以来、二度目の改定である。

再改定された同特措法案は、機関委任事務だった「代理署名」「公告縦覧」が国の直轄事務となることや新規使用・収用でも収用委員会による緊急裁決、総理大臣による代行裁決が盛り込まれており、国が直接関与することで、駐留軍用地の提供について「法的空白」が生じることが皆無となる内容である。

前回の改定では「必要最低限の措置」として、期限切れの土地の暫定使用を認めることが柱だったが、今回の改定で、新規収用さえ可能となり、国の意のままに軍用地を確保できる法的根拠をつくり上げたことになる。

特措法の再改定について政府は「日米安保条約にかかわる問題を国が責任をもって行うためのものである」と、その意義を強調しているが、「県や市町村の権限が奪われ、地方分権に逆行する」などの批判の声があり、軍用地の強制使用問題は新たな局面を迎えたと言えよう。

【主要参考資料】

  • 日本の安全保障と基地問題(報告書)
  • 日本弁護士連合会編(明石書店発行)、一九九八
一般社団法人沖縄県軍用地等地主会連合会(土地連)
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