一般社団法人沖縄県軍用地等地主会連合会(土地連)

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土地連の歩み-通史編

第一編 軍用地問題の変遷抜粋

第一章 講和条約発効から本土復帰まで

第一節 施政権の分離

一 軍事占領から講和へ

(一) 軍政から民政へ

米軍による沖縄占領は、1945年(昭和20年)6月下旬に日本軍の組織的抵抗が終り情勢が安定するにしたがって、「攻撃の段階」から「駐屯の段階」に入り、剥きだしの軍政は徐々に修正されて、占領目的に支障のないかぎり現地の慣習や制度を尊重して、できるだけ現地住民の自治組織に民事管理の機能を委ねる方向へと移行していった。

同年8月には、日本が無条件降伏して休戦状態となったことに伴って沖縄諮詢会が設置され、翌1946年(昭和21年)4月には沖縄中央政府(同年12月、沖縄民政府と改称)が創設され、1950年(昭和25年)11月には群島政府が発足、1952年(昭和27年)四月には琉球政府設立、という具合に試行錯誤を経ながら住民による自治政府の組織が整備されていったのである。

軍政の指揮系統については、状況の変化に対応して部隊の再編成が行われたという事情もあって、初期の段階で陸軍→海軍→陸軍→海軍とめまぐるしい移管と混乱が続いたが、1946年(昭和21年)7月の陸軍移管によって収拾され、西太平洋方面陸軍総司令官が軍政長官 (Military Governor)となり、沖縄基地司令官は軍政府長官(Chief Military Government Officer)という形に落着いた。

その後、1948年(昭23年)5月に沖縄基地司令部が独立してその司令官が軍政長官を兼ねることになった。軍政の実態についていえば、沖縄に配置された要員の経験不足などにより執行が恣意的となり、住民との間に摩擦を生じるなどのこともあったけれども、住民による自治政府を育てて民事管理の機能を委ねるというのが、占領の準則を定めた「野戦便覧」(United States' Army and Navy Manualof Military Government and Civil Affairs=FM27-5, Dec.22.'43) の基本的指針であり、大きな流れとしてはその方向に推移したのである。

一方、この時期、アジアの政情は中国内戦や朝鮮動乱などで緊張が高まり、米国は沖縄に恒久基地を長期確保する意思を再三にわたって表明していた。そのためにも住民による協力的な自治政府を立てて、米軍が絶対的な権限を保留しながら間接的に統治する方式は望ましいことと考えられていたのである。

こうして1950年(昭和25年)12月4日、米統合参謀本部は、極東軍総司令官を琉球民政長官に、琉球軍司令官(それまでの軍政長官)を民政副長官に任命し、琉球列島米国民政府 (United States CivilAdministration of the Ryukyu Islands=USCAR)の設置を命じた。この命令に基づいて、翌十二月五日「琉球列島米国民政府に関する指示」と題する極東軍総司令部書簡が出され、軍政から民政へ移行した。

民政への移行に伴い、司法、立法、行政の三機関からなる琉球政府が住民の民主的自治組織として整備され、また住民の生活水準を戦前のレベルに復興させるためにガリオア資金を投入するなどのことがなされたが、それにはあくまで「軍事的必要の許す範囲」という前提条件がつけられ、米軍が絶対的な権限を保留した点ではそれまでの軍政と変わるところがなかった。

住民のなかには、民政ということばの印象で、米軍支配からの解放への動きと受けとった向きもあったが、それは願望から出た誤解に過ぎなかった。現実にはむしろ反対にそれまでの軍政という暫定的性格の占領支配をより安定した長期的な支配形態に切りかえて、間近に迫っていた対日講和に備えるための布石だったのである。

(二) 占領から講和へ

この年、一九五〇年(昭二五)の年明け早々に、アチソン米国務長官は「アメリカは適当な時期に琉球諸島を国際連合の信託統治下に置くことを提案しよう。しかし、琉球諸島は太平洋防衛線の一部であり、これを保持しなければならない」と述べていた。

そして間もなく三月十七日には、米国は二か年計画で工費約七、〇〇〇万ドルの沖縄恒久基地建設に着手して長期支配に向けた既成事実を作り、主要関係国に示した対日講和問題覚書(一九五〇年十月二十六日)や、国務省公表の対日講和七原則(同年十一月二十四日)で、「合衆国を施政権者とする琉球諸島の国際連合信託統治」付託を表明した。

こうした動きをうけて、沖縄住民の間でも沖縄の将来の地位についての議論が活発になった。

各政党の主張は日本復帰論、琉球独立論、信託統治論に分かれていたが、世論の大勢は日本復帰論を支持し、沖縄群島議会は一九五一年(昭二六)三月十九日、一五対三の圧倒的多数で日本復帰要請を決議した。

これを契機にして超党派的な住民運動組織として日本復帰促進期成会が結され、日本復帰要請の署名運動が全琉的に展開された結果、三か月の間に全有権者の七二バーセントが署名した。沖縄群島政府は一九五一年(昭二六)八月、ダレス特使、対日講和会議議長、吉田首相に沖縄の日本復帰を要請した。

米国が主要関係国に提示した信託統治方式に対しては、ソ連、インド、中国などの対があった。特に、ソ連は対米覚書(一九五〇年十一月二十日)のなかで次のように論じた。

日本は連合国代表との間に取り交した降伏文書(一九四五年九月二日)ポツダム宣言(一九四五年七月二十六日)を受諾し、その条項を誠実に履行することを約しているが、ポツダム宣言のどこにも琉球諸島を日本の主権から除去すべきことを述べていない。しかもポツダム宣言はカイロ宣言(一九四三年十一月二十七日)の
履行を定めているが、そのカイロ宣言で三国首脳は領土不拡張の立場を確認しているのであるから、信託統治方式には問題がある、というのが反対の理由であった

これに対し、米国は、ポツダム宣言では「日本ノ主権八本州、北海道、九州及ビ四国並ビニ吾等ノ決定スル諸小島二局限セラルベシ」(第八項)として、四大島以外の島嶼については連合国の将来の決定に委ねているから、対日平和条約でこれについて定めることにはなんら問題はない。
また、国連憲章第七七条は、第二次世界大戦の結果として敵国から分離される地域にも信託統治制度を適用することを明白に規定しており、信託統治制度は領土拡張と同一視されるべきではない、という立場であった。

結局、一九五一年(昭二六)九月八日サンフランシスコで、日本と連合国代表による対日平和条約の署名調印式が行われ、一九五二年(昭二七)四月二十八日に発効して講和は成立した。これによって約七年に及んだ連合国軍隊による日本占領は終り、日本は主権国家として独立を回復したのであるが、沖縄側からの日本復帰要請は黙殺され、沖縄は同条約第三条後段によって日本本土から分離され、ひき続き米国の支下に置かれることとなった。

二 施政権分離

(一) 平和条約の信託統治条項

対日平和条約第三条は次のように定めている。

「日本国は、北緯二九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部かつ一切を行使する権利を有するものとする。」

この規定の構造は、まず本則ともいうべき前段で、沖縄を国連信託統治下に置くための提案権を米国がもつことを定め、後段ではこの本則の予定する信託統治が実現するまでの過渡的、暫定的措置として米国に施政権を認めるという二段構えになっている。ところが実際には、本則である前段の予定していた信託統治の提案はまったく行われることなく、後段の過渡的措置によって米国の沖縄支配が固定され、条約発効後二〇年余の長きにわたって続くこととなった。

いったい何故にこのような奇妙な展開になったかといえば、二つには前段の信託統治条項そのものに国連憲章にそぐわない無理があったからにほかならない。

国連信託統治制度については、国連憲章に四つの基本目的が定められている(第七六条)。そのなかでも特に「住民の政治的、経済的、社会的および教育的進歩を促進し、
⋯⋯自治又は独立に向けての住民の漸進的発達を促進すること」(同条b項)こそが最も重要な意味をもつものと解されている。

つまり、信託統治制度は、国際的後見を必要とするような遅れた地域に対して国連の監督のもとに統治を行い、自立を促進するためのものである。

ところが、沖縄の場合は、歴史的に日本の内地の一部を構成する地域であり、沖縄住民は他の日本国民と同一の政治的権利を享有し、高度の自治能力を有しているのであるから、本来国連憲章が想定しているような遅れた地域住民にあたらないことは明白であった。

一方、国連憲章は信託統治対象地域の一つに「第二次世界戦争の結果として敵国から分離される地域」(第七七条第一項b)挙げており、条約交渉のなかで米国は沖縄がこの条項に該当すると主張していたことはすでに触れたとおりである。しかし、ここで定めている「分離」の意味については、領土的分離のことであって、沖縄のような施政権のみの分離の場合はこれにあたらないとするのが、先例、通説となっていた。

こうして、すでに条約交渉の段階から、米国提案の信託統治方式については、ソ連中国、インドなど、連合国の間に異論があったことについても前述したとおりである。

かりに米国がこうした国連憲章上の無理を押して、沖縄に対する信託統治協定を国連総会または安全保障理事会に提案したとしても、すんなり承認されるはずはなかった。このことは米国自身も始めから認識していたに相違ないのである。

米国としては、国際的軍事戦略の必要から、沖縄に軍事基地を維持することが狙いであったから、この目的が充たされるのであれば必ずしも信託統治方式に固執するまでもないことであった。信託統治ということになれば、国連監督のもとで統治を行う窮屈さもあることを考えると、実のところ信託統治方式は必ずしも米国の本意ではなかったのではないか。結局、平和条約第一条前段の信託統治条項は、それ自体としては実質的意味をもたないで、たんに後段を引きだすためのレトリックに過ぎなかったようにもみえるのである。

このことから、日本では、米国に信託統治を提案する意思がないとするならば、それまでの過渡的、暫定的措置を定めた後段の規定も意味を失うことになるという、平和条約第三条失効論さえ台頭してきたほどであった。

(二) 米国の施政権と日本の残存主権

イ、日本に許された残存主権

対日平和条約は日本の領土の処分について、第三条のほかに、第二条で、日本が朝鮮、台湾、千島と樺太、南洋群島に対する「すべての権利、権威および請求権を放棄する」と定めている。これによって、これらの地域については日本はすべての権利を失い、どのような権利も残っていないことが明白である。ところが、第三条ではすでにみたように、日本はすべての権利、権限および請求権を放棄するとは規定していない。たんに米国が施政権を有すると定めているだけであるから、米国の有する施政権のほかになんらかの権利があるとすれば、それが日本に残されていると解する余地があった。

この点について、サンフランシスコ講和会議で米国のダレス全権は次のように述べている。「いく多の連合国は、これらの鳥に対する日本の主権をアメリカの主権のために放棄するように、講和条約が日本に要求すべきであると力説した。他の連合国は、これらの島を完全に日本に回復させるべきだと提議した。このように連合国の意見が分かれたので、アメリカは、もっともよい方式として、日本に残存主権(residual sovereignty) を維持することを許し、それと同時に、アメリカを施政権者とする国際連合の信託統治制度の下にこれらの島をおくことを可能にすることであろうと感じた」と。ヤンガー英国全権も、「講和条約は、これらの諸島を日本の主権から取り去っているのではなく、⋯アメリカの施政の継続を定めている」と述べ、これを受けて日本の吉田全権は、これら「諸島の主権が日本に残されるというアメリカ全権および英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜びをもって了承するものであります。

私は世界とくにアジアの平和と安定がすみやかに確定され、これらの諸島が一日も早く日本国の行政の下にもどることを期待するものであります」と述べている。

英国全権と日本全権は、たんに「主権」といっているが、前後の文脈から判断して、米国全権のいう「残存主権」の趣旨と異なるものでないことは明らかであった。ただし、それは明文の条約規定によって明示的に定められたものではなく、米国の施政権を定める規定の解釈によって間接的、黙示的に引きだされた概念であったから、用語表現としては、その後も「残余主権」とか「潜在主権」など、異なる表現もあらわれた。

こうした表現上の不一致はともかく、要するに、平和条約が日本になんらかの権利を残したとする点について異論はなかったのである。

日本に残されたいわゆる残存主権の内容や性質は、米国に委譲された施政権の及ぶ範囲によって制約されるものであり、両者は密接不可分の関係にあるから、相互に関連づけて理解する必要がある。

ロ、施政権・残存主権の内容

米国の施政権は、すでにみたように、平和条約第三条後段で、南方諸島の「領域および住民に対して、行政、立法および司法上の権力の全部かつ一切を行使する権利」と規定されているものである。領域および住民に対する行政、立法、司法上の権力の全部かつ一切とは統治権そのものにほかなないが、ここで米国に委譲されたのは統治権そのものではなく、それを行使する権利であり、一般に施政権と呼ばれていた施政権の委譲については歴史上いくつかの先例がみられるが、いずれの場合でも、施政権者は施政権委譲国の保有する残存主権を害するような、例えば当該地域を第三国に貸与するとか、割譲するとか、あるいは住民に独立を許すというような領土処分行為を行うことは許されていない。沖縄の場合もこの点について異論はなかった。つまり、沖縄に対する領土処分権は残存主権に含まれ、日本に留保されていた。ただ、沖縄を国連信託統治下に置くとする処分については、予め条約第三条前段で日本が意すると規定していたから、そのかぎりでの領土処分権は米国に委譲され、日本には残されていなかったことになる。

また、施政権の委議は、当該地域住民の国籍に影響を及ぼさないとする点も国際先例上確立していた。沖縄の場合も、沖縄住民が施政権委譲後も従前どおり日本国籍を保有していたとする点について異論はなかった。つまり、沖縄住民に対する国籍決定権は残存主権に含まれ、日本に留保されていた。沖縄住民に対する日本の戸籍事務の実際の取扱いにおいても、法務省の所管事とされ、沖縄に本籍を有する者についての事務管掌機関は福岡法務局とされていたのである。

以上のように、施政権分離の後も沖縄に対する領土処分権と住民の国籍決定権は日本に残されており、米国の施政権はこれを害することはできないとする点については、学説上も、実際上の取扱いでも異論はなかった。沖縄住民に対する外交保護権の問題についても、国際的な紛議はなかったが、学説上は米国施政権の本質をめぐる理解の相違から、意見の対立がみられた。

ハ、沖縄住民に対する外交保護権

沖縄住民に対する外交保護権をめぐる論争は、講和発効後に沖縄における軍用地問題が住民の「島ぐるみ闘争」となって白熱化したことにともない、政治問題として日本の国会でもとりあげられたことが発端となった。日本政府ははたして自国民保護のためにその外交保護権を行使して沖縄の軍用地問題に介入することできるか、という点が論議を呼んだのである。

一般論としていえば、国際法上の外交保護権は国籍を媒体として、国籍の属する国家が行うものであるから、沖縄住民が平和条約発効後も日本国籍をもつとされるのであれば、日本がこれに対して外交保護権を有するということについても議論の余地はほとんどなかったはずである。ところが、ことが国外において第三国に対する関係で問題とされたのではなく、沖縄において施政権者たる米国に対する関係で問題とされたところから、米国のもつ施政権の本質と日本の残存主権をめぐる議論の一環として熱い論議を呼ぶことになった。

一つの考え方によれば、日本は平和条約第三条によって沖縄に対する立法、司法、行政のすべての権限を行使する権利を米国に移譲したから、米国は沖縄に対して領土主権と対人主権をもち、沖縄住民は日本国籍をもつといっても、現実の法律関係では米国の対人的統治に服すべき義務があり、米国の国民と同じような地位にある。

日本は住民の国籍について最終的帰属決定権をもつにすぎず、外交保護権をもつものではない、という議論であった。この立場では、日本は米国だけでなく他の第三国に対する関係においても外交保護権をもたない。としていたようにみえる。

この否定論にたいして、その対極にある考え方として、沖縄にたいする米国の施政権は領土主権にかぎられ、米国が沖縄をあたかも自国領土の一部であるのと同様に振舞うことができるというものであって、住民にたいする対人的統治権を含むものではない。沖縄住民はあくまでも日本国民であって、その法的地位は米国本土に定住する日本国民と異なるものではない。したがって日本政府は自国民たる沖縄住民にたいする外交保護権を行使して対米折衝することができる、という議論があった。もちろんこの立場では、他の第三国にたいする関係でも日本が外交保護権をもつことはいうまでもないことであった。

こうした両極の中間にあって、いま一つの考え方は、日本は沖縄住民の本国として、また米国は施政権者として、日米双方の外交保護権が競合的に併存するという理解にたって、国外での第三国にたいする関係における日本の外交保護権を肯定した。一方、沖縄における施政権者たる米国にたいする関係については、私法上の占有理論における間接占有と直接占有のように、重なりあった段階的関係としてとらえ、間接占有者は直接占有者にたいしては占有権を行使することができないように、日本は米国にたいしては一般国際法上の外交保護権を行使することはできないけれども、条約の直接当事国としての特殊法律関係から生ずる、たんなる一般国際法上の外交保護権以上の、より包括的な請求関係が成立すると論じて、対米折衝の法的根拠を示した。

この問題に対する日本政府の立場は、法理的説明というより、むしろ政治的色彩の表現で、「政府が同胞である沖縄住民の生活に関するこの問題で米政府と折衝することは当然である」との線であった(昭和三十一年七月三日閣議了承)。外交保護権の有無について触れることを避けて事実上の対米折衝を行う、という意味であり、基本的に右の第三の考え方に通ずるものであったとみられる。

第三国における沖縄住民にたいする外交保護権については、「第一球陽丸」の事例がある。一九六二年(昭三七)四月三日、モロタイ島北方海上で、沖縄漁船「第一球陽丸」がインドネシア軍用機の銃撃を受けて乗組員一人が死亡、三人が負傷するという事件が発生した。インドネシア政府は米国政府に対し、死傷した四人の乗組員に適当な補償措置を講ずる旨を通告し、米国政府は、爾後この問題が早急に解決するよう期待すると述べた。このことは両国政府ともに外交保護権が米国にあるとの立場にたったものと理解された。

その後、日本政府は「(第三国における沖縄住民に対する外交保護権は)従来政施権者たるアメリカ政府がもっていたが、一九六七年(昭四二)五月以降、第一次的責任を日本政府がとり、第二次的責任を施政権者たるアメリカ政府がもつこととなった。」と説明した(東郷文彦外務省北米局長、一九六八年(昭四三)四月十日、参院予算委員会第一分科会)。これからすると、第三国にたいする関係での外交保護権をめぐる日本の残存主権の機能が必ずしも固定したものではなく、日米関係の変化に対応してしだいに拡大していったことがわかるのである。

ニ、出入域管理

沖縄を占領した米軍は、一九四五年(昭二〇)六月、軍政府布告第二号戦時刑法により、琉球列島の出入域を全面禁止した。

また、日本が無条件降伏して戦闘がおさまってからも、一九四六年(昭二二)一月にはGHQによって琉球列島は日本本土から行政分離されたため、沖縄本土間の自由な往来はできなかった。

しかし一九四六年(昭二一)八月には戦後処理として本土疎開者の引揚げが始まり、またベルー、ハワイ二世留学生、海外視察員の海外旅行が許可されるなど、渡航が一部解禁となり、さらに一九四九年(昭二には本土沖縄間の渡航許可手続が制度化され、米軍政府の許可証明書を得て渡航する道が開かれた。

これに対応して、一九五〇年(昭二五)十二月には琉球列島米国民政府の設立に伴ってそのなかに「税関出入管理事務所」が新設され、一九五二年(昭二七)四月一日に発足した琉球政府では、警察局のなかに「出入管理課」が設置されて、出入管理業務の本格化が図られた。そして四週間後の四月二十八日に平和条約が発効した。

平和条約の発効によって日本は主権国家として独立を回復したけれども、沖縄は本土から分離されて米国の施政下に置かれたため、本土沖縄間の往来は、国内の自由移動とは異なって、渡航証明書がなければ許されず、出入域管理の対象とされた点では、それまでと変わるところがなかった。以下、場合を分けて簡単に述べる。

  • (1) 本土民の沖縄への渡航 本土沖縄間の往来は一国領域内の移動であるから、外国旅行の際に外務大臣の発給する旅券ではなく、それにかわる内閣総理大臣発給の身分証明書が必要とされた(「本土から南方地域に渡航する者及び沖縄から本土に渡航する者に対して発給する身分証明書に関する政令」一九五二(昭二七)・六・三政令二一九号)。
    それには、事前に琉球列島民政副長官(後に高等弁務官に改正、以下同じ)の許可を得なければならなかった(琉球列島出入管理令」一九五三(昭二八)・一・七、布令九三号)。したがって沖縄に入域できるか否かは、専ら民政副長官の裁量しだいであった。
    一九六三年から一九六七年六月までの間に一四四件が入域拒否されたことが報告されている(日弁連「沖縄報告書」法律時報一九六八年三月臨時增刊号一〇六ページ)。
  • (2) 沖縄住民の本土への渡航 沖縄住民が日本本土へ渡航するには、琉球政府出入管理部に日本渡航証明書の発給を申請し、琉球列島民政副長官(後に、高等弁務官)の許可を得て交付を受けることが必要とされた(「琉球人の日本旅行に関する規定及び手続」(一九五二年(昭二七)六月十七日米国民政府指令第一二号、その後、「琉球住民の渡航管理」一九五五年(昭三〇)八月十三日米国民政府布令第一四七号)。
    一九六七年(昭四二)九月十六日以降は、那覇市に置かれた総理府所管の日本政府南方連絡事務所で内閣総理大臣に身分証明書の発給を申請することもできるように改められたが(前記政令第二一九号)、申請の際には高等弁務官の出域・再入域許可がその前提とされたから、沖縄住民の本土渡航が高等弁務官の裁量しだいとされた点に変わりはなかったのである。
    一九六三年から一九六七年八月までの間に、出域許可拒否件数四〇件、うち九件の異議申立てがなされ、二件だけが許可されたことが報告されている(日弁連の前掲報告)。
    沖縄住民の本土渡航には、日本政府による入域許可の制度はなく、高等弁務官の出域,再入域許可さえ得れば、所定の形式的手続をへて身分証明書が交付された。
  • (3) 沖縄住民の外国への渡航 沖縄住民が外国へ渡航するには高等弁務官の発給する「身分証明書」が必要とされた。身分証明書は、外国への渡航と琉球列島への再入域を許可するための旅券に代わり発給されるもので、その申請手続は日本渡航証明書の場合と同じであった(前掲布令第一四七号)。
    一九六七年(昭四二)九月十六日以降は、旅券法の特例に関する法律(昭和四二法一三七)の施行に伴い、従来、高等弁務官が発給していた身分証明書に代わって、那に置かれた日本政府南方連絡事務所を経由して外務大臣発給の旅券を申請することもできるようになったが、旅券発給の前提となる高等弁務官の出域・再入域許可の制度はそのまま維持された(前掲布令第一四七号)。

沖縄住民の本土への渡航と外国への渡航について、一九六七年(昭四二)九月十六日以降は日本政府が関与できるようになった点は注目される。従来は身分証明書発給権限と出入域許可権限がともに高等弁務官にあったのが、前者については日本政府でもできるようになったということは、米国が名を捨てて実を残した形で、その限りにおいて日本のもつ残存主権の機能がしだいに拡大していったことを示す、これも一つの例ということができるであろう。

ホ、沖縄に対する日本法の効力範囲

施政権分離の結果、日本の立法権は沖縄に及ばないことになったため、日本本土において行われている法令は、一般論としていえば、沖縄に対してその効力を及ぼしえないことになった。施政権分離前におても、米軍の占領によって日本の立法権は沖縄から事実上排除されていたのであるが、米国が条約上施政権を得た結果、それまで事実上の状況にすぎなかったものが、あらためて条約にもとづく特別法律関係に位置づけられたわけである。

一方、米軍に占領されるまで沖縄に行われていた日本法は、「陸戦の法規慣例に関する規則」(いわゆる「ハーグ規則」)第四三条の定める占領地現行法尊重の原則にしたがい、ニミッツ布告によって「本官の職権行使上改廃の必要を生ぜざる限り」効力を持続するものとされ、この取り扱いは施政権分離後も変わることはなかった。すなわちこれらの日本法は、米国の施政権にもとづいて、布告、布令、指令などの米国民政府法令や、立法、条例、規則などの琉球政府法令とならんで、「旧日本法」と呼ばれ、沖縄現地法制の枠組みのなかでその一部として行われたのであって、日本の立法権にもとづいて行われたわけではない。

たとえば、民法親族編・相続編(明治一法九)は、日本本土では終戦後に新憲法の精神に沿って全部改正され(昭和二二法二二二)、一九四八年(昭二三)一月一日から施行されたことは周知のとおりであるが、沖縄では改正前の旧規定が占領時現行法としてそのまま行われ、一〇年ちかくたってようやく一九五七年(昭三二)に、琉球政府立法院の立法によって日本の新民法と全く同一内容に改められ施行された。したがってそれは法制上もはや日本法とはいえず、沖縄現地法秩序の一環として行われたのである。

ここで取りあげるのは、日本本土において日本の立法権にもとづいて行われる日本法の沖縄にたいする効力範囲のことであるが、一般論としていえば、施政権分離によって日本法は沖縄に効力を及ぼしえないことになったということはすでに述べたとおり
である。しかし、日本が沖縄にたいする残存主権を認められたところから、個々の法規のなかには、その法目的や性格にてらして、沖縄に効力を及ぼしたものもあるので、以下その点についていくらか取りあげてみることにする。

(1) 国籍法

すでにみたように、施政権の分離は沖縄住民の国籍に影響を及ぼさないとされ、沖縄住民にたいする国籍決定権は日本の残存主権に含まれて日本に留保されていた。したがって、日本本土で戦後に改正された新国籍法(昭和二五法一四七)が沖縄にたいしても効力を及ぼしていたことは明らかである。ただ、日本本土と沖縄が行政分離されていたために、国籍法を現実適用する際の事務取扱いのうえで若干の困難があり、日本本土・沖縄間で連絡調整が行われた。なお、沖縄では改正前の旧国籍法(明治三二法六六)が形のうえでは占領時現行法としてそのまま残っていたけれども、これは日本本土における改正国籍法の施行によって廃止されたことにともない沖縄においてもその時点で効力を失い、死法と化したことはいうまでもない。

(2) 援護措置等関係法令

日本土が講和によって敗戦の荒廃から立ち直り、国力を回復するにつれ、施政権分離によって本土から切り離されたままの沖縄では、本土に比べて民生の立ち遅れがますます顕著になった。施政権分離後も沖縄住民の日本国籍は変わらず、日本は残存主権を認めらたところから、日本政府としては日本防衛の犠牲となった沖縄にたいし本土並みの援助をしなければならないとして、一九五二
年度から沖縄援助が始まった。そのためには日本本土における各種の援護措置等関係法令を沖縄にたいしても適用する必要があり、事前に琉球政府、日本政府南方連絡事務所および米国民政府間で交渉がなされ、米国民政府の承認にもとづいて適用がなされた。

この分野の諸法令は、戦没者遺家族援護や恩給関係など、おおむね戦後処理にかかわる恩恵的社会立法で、送金事務を中心とする単純な行政事務を定めたものであった(関係諸法令の列挙については、南方同胞援護会編『沖縄復帰の記録』一九七二年、一〇一ページ以下を参照)。要するに施政権者たる米国の権益を妨げず、むしろ有益と判断されたものが米国の同意によって適用されたのであって、日本固有の立法権本来的に沖縄に及ぼされたわけではなたのである。

(3) 船舶法

日本の船舶法(明治三二法四六)によれば、日本国民の所有する船舶は日本船舶とされ、日本の国旗を掲げるものとされている。これによれば、施政権分離後もひき続き日本国籍を維持していた沖縄住民の所有する船舶は、日本船舶として日章旗を掲げることになるはずであったが、沖縄現地ではこの法律は適用されず、米国民政府布令第一四八号によって、琉球住民の所有する船舶は琉球船舶とされ、「国際信号旗D(デルタ)旗の尾端から旗の幅を等辺三角形に切取った特別な旗」を掲げる
ものとされていた。

ところが、この国籍不明な旗を掲げた琉球船舶が南方海域で銃撃を受けたり、捕獲されたりする事件が相次ぎ、船舶の安全確保の面で憂慮すべき事態となった。このため日米間の協議によって、米国が日章旗の掲揚に同意し、漢字とローマ字で「琉球」「RYUKYUS」と書かれた三角旗を上位に、日章旗を下位に併揚することができるようになり、問題は解決された。

これによって日本船舶法が変則的な一部適用の形で沖縄に効力を及ぼしたことになるが、れも日本法の本来的効力によったものではなく、施政権者たる米国の同意によってなされた例外的措置にほかならない。

(4) 国政参加特別措置法

日本土における戦後の衆議院議員選挙法第一回改(一九四五年)別表は、沖縄県を一選挙区とし、定員二名を割りふってあった。ところが同第二回改正(一九四七年)で沖縄県の項は削除され、沖縄は名実ともに日本の国政から除外された。そしてこの状況は施政権分離後も変わることはなかった。

これに対して、沖縄では、沖縄住民は日本国民として本土と同等の資格で国政参加権があるとの声がしだいに高まり、一九六一年(昭三六)四月一日には、琉球政府立法院が全会一致で「琉球住民代表の日本国会参加に関する要請決議」を可決し、以後立法院は毎年のように要請決議を繰りかえした。

しかし本土側では、日本国憲法が沖縄に適用されていない状況のもとでは「完全本土並み」は無理であり、いわゆる「オ
ブザーバー方式」による参加しかないというのが政府与党の支配的な考え方であった。

その後、日米間で沖縄返還交渉が進展し、佐藤・ニクソン共同声明(一九六九年十一月二十一日)で一九七二年度中の沖縄施政権返還が明記されるに及んで、ようやく本土側でも、沖縄住民に本土議員と全くの地位・資格・権限で完全な国政参加を認めることになり、「沖縄住民の国政参加別措置法」(一九七〇年五月七日法四九)が成立、公布された。

同法は、沖縄を一選挙区として、衆議院議員の定数五、参議院議員の定数二を割りふり、公職選挙法(昭和二五法一〇〇)に準じて琉球政府立法院が制定する選挙法の定めるところにより沖縄で選挙を実施し、当選人の氏名その他選挙の結果について、内閣総理大臣が琉球政府行政主席から通知を受けて告示するものと定めた。

同法による二八年ぶりの国政参加選挙は、一九七〇年(昭四五)十一月十五日に行われた。

施政権分離後、沖縄住民の国政参加が閉ざされたのは、日本国憲法の効力が沖縄に及ばなくなったことが理由とされた。しかし曲折を経て遂に沖縄住民の国政参加が実現にいたったことからすれば、この段階では、少なくとも国民の参政権に関する憲法条項は沖縄に効力を及ぼしていたことが明白である。

このようにみてくると、要するに沖縄にたいする米国の施政権・日本の残存主権の内容は決して不動固定のものとしてあったのではなく、状況の変化に応じながら、日米両国の協議によって動いてきたことがわかる。したがって、両者の関係を正確に理解するためには、こうした変化の過程を実態に則しながら動態的にとらえることが必要である。

(三)沖縄現地法制への影響

これまでは沖縄にたいする米国の施政権と日本の残存主権の関係に焦点をあてて述べた。つぎに、沖縄現地法制が平和条発効によってどのような影響をうけたに目を転じてみたい。もっとも、ひと口に沖縄現地法制といっても、種々の分野にまたがる膨大なものであり、ここでその総てをいちいち取りあげることはできない。ここでは基本法の分野に的を絞って簡単に述べることにする。

詳細については、宮里政玄編『戦後沖縄の政治と法』(東京大学出版会·一九七五年)所収の諸論文を参照されたい。

米軍による沖縄占領は、平和条約の発効にともなって平時管理へと移行した。したがって占領中の布告、布令、指令等は直ちに平時管理にふさわしい新しい法制にとって替えられるもの、と沖縄住民は期待していた。

しかし現実には、条約が発効しても沖縄現地法制のうえになんの変化も現れることはなかった。

米国にしてみれば、対日講和にそなえてあらかじめ琉球列島米国民政府を設置して、軍政から民政へと看板をかけかえ、条約発効の四週間前に、司法、立法、行政の三機関からなる琉球政府を発足させるなど、平時管理の布石をすでに終えたつもりでいたものと思われる。

しかし沖縄側から疑問や不満が続出したため、ようやく条約発効後一年もたってから、琉球民政長官(極東軍総司令官が兼務)名で布告二二号「平和条約に基づく米国民政府の存続」(一九五三・四・三〇)を発布し、既存の琉球列島米国民政府がそのまま存続すること、従前からの法令はすべて有効であることを宣言した。

しかし平和条約にもとづく施政権が米国政府機構のなかでどの組織機関によって担当されるのか、どのように行使されるのか、という基本点が明らかにされないままに、従来からの現地軍総司令官が「民政長官」という肩書でこのような宣言をしただけでは、戦時占領体制の継続にしか映らず、沖縄側の疑問や不満は解けるわけがなかった。

そもそも条約で施政権の委議をうけたからには、その実施のための基本法を自国法秩序のなかに整備することが不可欠であった。当然のこととして、その後一九五五年になって遅ればせながら、米政府内で琉球列島の管理に関する議会法制定の動きがあったのであるが、結局成立にはいたらなかった。

その理由としては、
①平和条約第三条の仕組み自体が史上に前例のない変則的なものであったために、沖縄の法的地位を不安定で不透明なものにしていたこと、
②沖縄住民が米国施政権の継続安定を望まず、一貫して日本復帰を要求していたこと、などが挙げられている。

こうした曲折の末に、条約発効から実に五年余もたってから、「琉球列島の管理に関する行政命令」(一九五七・六・五、大統領行政命令第一〇七一三号)が発布されて、この問題に一応の決着がついた。その内容の一部をかいつまんで要約すると、
①沖縄統治の責任者には、大統領の指揮監督のもとに国防長官があたる、
②国防長官のもとに琉球列島米国民政府をおき、その長として琉球列島高等弁務官をおく、
③高等弁務官は国防長官が国務長官に諮り、大統領の承認をえて合衆国軍隊の現役軍人のなかから選任する(実際には在沖米陸軍司令官が
任命された)、
④琉球列島に関する外国および国際機構との交渉については国務長官が責任を負う、
⑤国防長官が沖縄にたいする施政の権限を行使するにあたっては、民主主義の原理を基礎とし、健全な財政機によって維持される能率的で責任ある琉球政府の発展を助長し、琉球列島住民の福祉と安寧のために全力をつくし、経済的、文化的向上を促進する、
⑥沖縄現地でこれまでに発せられた布告、布令、指令はこの命令に抵触しないかぎり効力を持続する、
⑦その他、琉球政府の立法、行政、司法権について定めているが省略する。

施政権行使についての基本法がこうして大統領行政命令という法形式によったというのには、さきに議会による法律制定の試みが一度失敗したということのほかに、日米関係と沖縄の政治状況の変化に臨機応変に対応するためには、議会の法律よりもむしろ改正に手間暇かからず、小回りの利く大統領行政命令のほうが都合がよいという判断があったのではないか。事実、この行政命令はその後四回にわたって改正されたのである。

この行政命令は、一方で高等弁務官制を採用し、民主的な琉球政府の発展を謳うなど、平時管理の装いをつくろいながら、実際には現地軍の司令官が高等弁務官に任命され、琉球政府の自治権は高等弁務官の裁量によっていくらでも制限できる仕組みになっているなど、実質においては、平和条約発効前の占領体制と大きく変わるところはなかったのである。

このようにみてくると、平和条約は、沖縄現地法制に関するかぎり、それまでの古領による米国の既得権益確保に狙いがあったことは明白である。

条約の発効によって占領から平時管理に移行するというような法概念上の変化それ自体は、沖縄問題を担当した米当局者の思考のなかでそれほど重要な意味をもっていなかったようにみえるのである。

平和条約が発効してから大統領行政命令が発布されるまでに、なんと五年もの歳月を要した事実がこのことを雄弁に物語っている。

【主要参考資料】

  • ・沖縄復帰の記録(南方同胞援護会編・発行、一九七二)
  • ・沖縄問題基本資料集(南方同胞援護会編・発行、一九六八)
  • ・戦後沖縄の政治と法(宮里政玄編・東京大学出版会、一九七五)
  • ・沖縄の地位(国際法学会編·有斐閣、一九五五)
  • ・特集南方諸島の法的地位(国際法外交雜誌六五卷第四・五合併号、一九五八)
  • ・沖縄報告書(日本弁護士連合会編・法律時報、一九六八年三月臨時增刊号三三ぺージ以下所収)
  • ・米国陸海軍 軍政/民事マニュアル(竹前栄治・尾崎毅訳・みずず書房、一九九・その他
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