戦後の軍用地接収
米軍の占領政策
沖縄本島への上陸後、米軍は間もなく読谷村字比謝に米国海軍軍政府を設置し、いわゆる「ミニッツ布告」(1945年布告第1号(権限の停止))を発布。南西諸島とその周辺海域を占領地域と定め、日本の司法権、行政権の行使を停止し、軍政を施行することを宣言した。
沖縄全域をその直接支配下に置いた米軍は、直ちに住民を各地に設置した捕虜収容所に強制隔離し、その間、基地として必要な土地を確保したうえ、旧日本軍の飛行場の拡張をはじめ、住宅施設、倉庫施設、通信施設、演習場等の基地の構築を進めていった。つまり、沖縄における軍用地接収は、第二次大戦による事実上の占領からはじまっており、現在のほとんどの軍用地は、このような背景により構築されたものである。「はじめに軍用地ありき」であった。
その後、米軍は不必要となった地域を順次住民に開放し、居住地及び農耕地として割り当てて、民政秩序の回復と生活の安定を図っていった。これが、いわゆる割り当て土地制度の発端である。ところが、順次行われていた軍用地の開放は、1949年(昭和24年)以降、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争の勃発など、極東における国際情勢の変化が生じたため、極東政策を転換。沖縄の基地を拠点基地(太平洋の要石)として位置付けて、土地の再接収へ乗り出していった。
米軍は、このような占領状態における軍用地の接収については、国際法上当然与えられた権利であるとし、その根拠とする法規として「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ陸戦法規:1907年ハーグで調印)」を挙げ、何らの法律上の措置も必要としないという考え方であった。
この考え方は、対日平和条約(講和条約)が締結されるまで続き、その期間、占領当初の軍用地及びその後に新規接収した軍用地に対する対価の補償はまったくなされないまま、無償使用が続けられていった。