講和条約発効後の軍用地/一般社団法人沖縄県軍用地等地主会連合会(土地連)

沖縄の軍用地に関する問題解決、地主の財産保護及び福利厚生増進を行っています。

土地連連絡先

講和条約発効後の軍用地

1952(昭和27年)年4月28日、日米講和条約発効。沖縄は条約第3条により日本本土から分断され、米軍の施政権下に置かれた。同時に、米軍による沖縄の占領状態は終結し、米軍はハーグ陸戦法規を根拠とする軍用地の使用権原を失うこととなった。したがって、引き続き軍事基地を確保する必要のあった米軍は、講和条約発効後の基地の継続使用を図るための新たな法的措置(地主との契約又は強制収用)の必要に迫られた。

?そのため米軍は、法的な使用権原を取得するために、施政権に基づき次々と布告・布令等を発布し、軍用地使用についての法的追認を行なうと同時に、新たな土地接収を強行していった。

まず米軍は、1952年(昭和27年)11月1日、民政府布令第91号「契約権」④を発布。その内容は、琉球政府行政主席が個々の地主と賃貸借契約を締結し、米国政府に転貸することで、土地所有者の合意(契約)を根拠にしようというものであった。ところが、契約期間が20年の長期に及ぶこと、地料が低廉であることなどの理由により、この契約に応じた地主はほとんどなく、米軍の意図は失敗に終わった。

そこで米軍は、1953年(昭和28年)3月23日、布令第105号⑤を発布し、布令第91号による賃貸借契約とは切り離して地代のみの支払が行なわれた。これが、米軍によって初めて支払われた地料であったが、年間坪当り平均1円10銭(B円)という低廉なもので、まさに涙金そのものであった。

次いで米軍は、失敗に終わった布令91号に代わる軍用地取得のための手続きとして1953年(昭和28年)4月3日、民政府布令第109号「土地収用令」⑥を発布し、同布令によって土地接収を強行していくこととなった。

ところがこの布令は、本来、講和条約発効前からの既接収地についての使用権原を取得する目的で発布されたものであったが、当時は、米軍基地の建設、強化が進められていたため、もっぱら、新規接収のみに適用されることとなった。発布後、まもなく那覇市銘苅・安謝地区(同年4月)、伊江村真謝・西崎地区(1954年6月)、宜野湾市伊佐浜(1954年7月)などの各地に収用宣告を発し、武装兵に守られたブルドーザーによって接収されていったため、大きな社会問題となった。地主をはじめ、住民は激しくこれに反対し、立法院においても満場一致で布令撤廃の要請が採択された。

既接収地の使用権原について依然として法的根拠を欠いていた米軍は、住民の抗議をよそに基地確保のための基盤固めを急ぎ、最終的な措置として、1953年(昭和28年)12月5日に民政府布告第26号「軍用地内における不動産の使用に対する補償」⑦を発布。この布告により、すでに使用している土地の使用権原の合法化を図った。

つまり、米軍はこの布告を発布して、講和条約発効前から引き続き使用してきた土地に対して「当事者間に明示の契約はないが、当時の事情や状況からして当事者間に事実上黙認による使用関係がある」として、いわゆる暗黙の合意「黙契」による賃借権の成立を一方的に宣言したのである。ところが同布告には、「賃借料に不満があれば琉球列島米国土地収用委員会に訴願ができる。同委員会において審理された裁定額は最終的であり、永久に双方を拘束する」という条項があり、この条項をめぐって地主の間でも紛糾があった。というのは、米軍人軍属だけで構成された土地収用委員会に公平適正な裁定ができるのか、裁定で拘束されるのは地主だけではないか、低額地料の押し付けではないか……という心配があったからである。

問題を重視した土地連⑧では、早速、臨時総会を開いて協議。協議の中で「地主の不利益となる訴願は保留し、土地使用料増額運動だけを続ける」との意見も一部に見られたが、激しい論議の末、結局、「訴願は訴願として進める」との方針に立って、ほとんどの地主が訴願提起を行なうこととなり、事態は一応収拾されたのである。

その頃、新規接収に対する地主・住民の反対、抵抗運動が高まる中で、軍用地料をめぐる問題が新たな争点としてクローズアップされてきた。

米軍は、年間賃貸料を支払う代わりに、土地代金に相当する額を一括して支払うほうが得策であるとの観点から、1954年(昭和29年)3月、オグデン民政府副長官が、軍用地料の「一括払計画」を発表したのである。

当時、1年間の借地料として市場見積価格の6%を支払っていたので、それを一括払いの方針によって、地価相当額(借地料の16.6年分)を支払い、永代借地権を取得しようというのが米軍の意図だった。また、5年以上の長期にわたって使用が見込まれる土地は、すべて一括払方式を適用。土地を失った者は八重山群島へ入植させ、一括払いされた地代をそのための資金に充てさせるという考えであった。

この一括払計画に対し、関係地主はもとより、住民からもいち早く反対の意思表示がなされた。

問題を重視した立法院では、1954年(昭和29年)4月30日、「軍用地処理に関する請願決議」を全会一致で採択し、その中で要請された次の4項は、いわゆる「軍用地問題に関する四原則」⑨として、その後の沖縄における住民運動の基本原則となるものであった。

つまり、①土地の買上げ又は永久使用料の一括払いは絶対に行なわないこと、②使用料は適正かつ完全な補償で、評価及び支払いは一年毎とすること、③米軍が加えた損害については適正賠償額を速やかに支払うこと、④不要な土地の早期開放及び新規接収は絶対に避けること、の決議の下に、行政府、立法院、市町村長会、土地連合会の四者(同年6月に市町村議会議長会が加わって五者となった)が結集し、その後の軍用地問題に対しては、この「五者協議会」が地主及び住民の代表として現地米軍と連日にわたり折衝を続けていった。

しかしながら、この問題は現地米軍の権限の範囲を超えるものであったため、何らの解決策も見出すことはできず、結局、沖縄側の代表を米本国に派遣して、沖縄の実情を直訴することとなった。

1955年(昭和30年)5月23日(~6月28日)、住民代表として比嘉秀平行政主席ら6人が渡米⑩し、米下院軍事委員会で、四原則を含む諸々の軍用地問題についての早期解決を訴えることとなった。その結果、新規接収についての要望は叶えられなかったが、一括払いの一時中止と調査団の沖縄派遣が決められた。

住民代表との合意により、米下院軍事委員会は、メルビン・プライス軍事委員長を団長とする「米下院軍事委員会軍用地調査団」⑪を沖縄に派遣し、軍用地問題全般についての調査を行なうこととなった。

1955年(昭和30年)10月23日(~26日までの4日間)、調査団が来沖。同調査団の来沖の目的は、「軍用地問題全般についての調査と勧告」となっていたので、地主はじめ住民は何らかの解決策が示されるものと大きな期待を寄せていた。

ところが、調査団の帰国後、翌年6月に発表された調査報告書(いわゆるプライス勧告)⑫は、住民の期待を裏切り、一括払い、新規接収を含んだ勧告であったので、住民は大きなショックを受けたのである。

つまり、調査報告書は、一括払いの妥当性を強調し、新規接収の正当性を肯定したもので、沖縄の基地確保が米国にとっていかに必要であり、重要なことであるかを再確認するという内容であったからである。

プライス勧告が発表されるや、住民は激怒し、激しい抗議を行うとともに一斉に反対運動に立ち上がった。そしてついに、琉球政府首脳をはじめ、関係団体役員は、総辞職⑬の決意表明を行なうに至り、一括払い・新規接収反対闘争は、沖縄全域に広がる「島ぐるみ闘争」⑭へと発展していったのである。

沖縄では初めての、この「島ぐるみ闘争」は、全住民が思想や立場を超えて固く団結したものとなり、日本本土の同胞からも続々と激励、支援が寄せられた。1956年(昭和31年)7月28日に開かれた「四原則貫徹県民総決起大会」(於那覇高校)には、十数万余の地主、大衆が参加。米軍政の不当な抑圧に耐えてきた住民の怒りが一気に爆発した感を呈した。

こうした住民の激しい抵抗のさなか、米軍はオフリミッツ⑮(米軍人・軍属の民間地域への立ち入り禁止)の発令と琉球大学への援助打切りを通告。

レムニッツアー民政長官は、1957年(昭和32年)1月、當間重剛行政主席、與儀達敏立法院議長ら沖縄の首脳と会談し、「一括払い及び新規土地接収は、米合衆国の最終方針である」と発表。そして、同年2月23日、民政府布令第164号「米合衆国土地収用令」⑯を発布して、一括払いと新規接収の実施に取り掛かった。

この布令は、地主の所有権は残されるとなっていたが、その土地の地価相当額の地料を一括して支払う代わりに、土地所有権は永久に拘束されるという内容であった。そのため事実上の土地買上げとなり、沖縄に対する日本国の領土・主権をも侵害する由々しい問題であるとして、この発表は、「島ぐるみ闘争」にますます拍車をかける結果となった。

このような混乱の続く中で、米民政府は住民の反対を無視して、1957年(昭和32年)5月、那覇空港、嘉手納飛行場などに、また、ナイキ基地建設のため、読谷村や勝連村など14ヶ市町村に対して次々と限定付土地保有権の収用宣告を発し、一括払いを強行していった。こうした米軍の一括払強行に対する住民の反対運動はますます激化し、米軍との折衝は平行線のまま難航した。

その頃、何らの進展を見ない四原則貫徹運動に対し、地主・住民の間から一括払いを阻止することが優先であり、そのためにはある程度の妥協もやむを得ないとの意見が出され、①新規接収は避けるようにし、必要やむを得ない場合でも不毛地に限ること ②一括払いは認めない ③契約期限は5年とし、土地賃借料は毎年払い、5年毎に契約更新をすること等を内容とした「軍使用土地問題解決具体案」⑰が、同年9月26日、立法院で可決された。

この具体案をめぐり、激しい論議が交わされたが、地主をはじめ住民の大勢は具体案を支持することとなり、「島ぐるみ闘争」に足並みの乱れが生じたものの、一括払阻止運動はますます激しさを増していった。

ところが、明けて1958年(昭和33年)4月11日、立法院本会議において、モーア高等弁務官は「土地収用計画については、現在ワシントン当局で再検討が行われている」旨のメッセージを発表。さらに、DE(米陸軍地区工兵隊)には一括払中止を指令したことも明らかにした。

このような情勢の中で、4月28日開催の立法院・軍使用土地特別委員会は、米国において検討中の最終案に反映させるため、當間重剛行政主席ら7人の代表団⑱をワシントンに派遣することを決定。さらに、5月22日、ブース高等弁務官から、代表7人(通訳1人含む)に対してワシントン訪問の正式招待状が送られた。

代表団がワシントンにおいて具体的解決策についての直接折衝を行った結果、「沖縄の軍用地問題については、現地において高等弁務官と沖縄側代表との折衝によって解決すべきである」との結論に達し、その旨の共同声明が7月7日、ワシントンにて発表された。よって、最終的な解決は現地米軍と沖縄側との折衝に委ねられることとなった。